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春を待つ


   一

 白いカッターシャツに、汗がにじんできた。
 正は腕時計を見た。耐水性のある電波時計。五年前、兄から貰ったものだ。時刻は正確だった。家を出てからまだ、三分しか経っていない。
 九月も半ばであった。自転車をこぐ体に当たる風は、生ぬるい。昨日まで、半袖では肌寒く感じられる気候だったというのに、一夜を挟んだだけで、朝から夏の暑さがはびこっていた。外気と触れる皮膚は汗にまみれ、靴の中は蒸れている。
 もう、帰りてえな。
 高校に着くには、しょっちゅうタイヤの空気が抜ける、変速機のない黒いママチャリを、あと三十分はこぐ必要があるが、正の活力は既に、大きく減退していた。涼しい日が続いていただけに、突然残暑が厳しくなると、へこたれる。もう帰りてえ。そう思う。
 とことん、快晴だった。雲ひとつない青空。飽きる。正の自宅は、農村地帯にある。街の中心部にある学校までの道のりの半分以上が、左右に似たような田んぼの並ぶ道路だ。飽きる。
 十七年住んでいる土地に、目新しさはない。景色は良い。四方に山、豊かな樹木、稲、草花、虫、動物。だが、それらをいちいち楽しんでいたら、疲れてしまうし、やはり飽きる。通学中に面白みを感じるのはだから、ぴかぴかに光るクラウンやベンツ、BMWなどの高級車とすれ違うときくらいだった。誰が乗ってんだか知らねえけど、田んぼに落ちちまわねえかな、とわくわくするのだ。それがなければ通学路は、飽きるかしかないほど単調で、すぐに気力が削られるものだった。
 それでも、正は自転車をこぎ続ける。部活に、役立つわけではない。運動部に所属はしていない。そもそも、なんの部活もやっていない。自転車通学は、習慣だった。学校へ行く習慣だ。小学、中学、そして高校生になった今も続いている、自分が選択、決断したことから、築かれた習慣である。それをぶち壊すくらいなら、暑さに耐えながら、坂道でも辛抱強く、自転車をこいでいた方が、断然良いと正は思う。今の生活を、乱したくない。なにより、過去の自分を裏切りたくはなかった。
 しかし、秋の涼しさが決定的になっていたところへの、ぶり返してきた暑さには、それとは関係なく、腹が立つ。だから正は、ひとりのときに文句を言う。空気に言葉で気持ちをぶつけても、反応されないのが当たり前だから、それで終わる。他人がいると、終わらない。別の感情が生じてくる。だから正は、他人がいる場では、不快さを表す言葉は使わない。ひとりのときに、文句を言うのだ。
 北海道もよ、夏休み、伸ばしゃあいいのに。冬休み、減らされても困んだけど。今年は雪、どうだべなあ。多いのかな。っつーか、全体的に休み、伸ばしてくんねえべか。ああ、クソ暑い。クーラーないんだぜ、俺の家。扇風機すら部屋にない。なんだそりゃ。ストーブもねえしよお。あっちい。クソ暑いんだよなあ、ホント……。
 クソ暑いのだった。どこからか、糞の匂いが漂ってきている。米と蕎麦が名産であるこの市には、農家が多々あり、牧場もいくつかある。牛が飼われている。牛は糞をする。その糞を堆肥にする農家がある。結果、鼻にも目にもしみる、吐き気を催す匂いが、時折風に乗って、正の住む家の周辺にまで流れてくる。クソ暑い、その通りだった。
 朝っぱらからチクショウメ、クソ暑い。
 クソ暑い、クソ暑い、ああクソ暑い、クソ暑い。呟きながら正は、そのリズムでペダルをこいでいた。最早、クソ暑いという言葉しか頭には浮かんでいなかった。車のエンジン音とは違う、間延びした機械音がしても、そんなぼやけた頭には、聞こえていなかった。
「おはよう」
 隣で低い、よく通るその声がしてはじめて、原動機付自転車に乗った永田龍二が自分の横に並んでいることに、正は気付いたのだった。
「おう」、と驚きつつ、自転車をこぐ足に力を入れ直し、「おはよう」、と返す。
 驚いたのは、意識のないところに声をかけられたため、というのが一つ。もう一つは、龍二のその姿だった。といっても、百八十センチを越える高く厚い体と濃い顔が、こぢんまりとした九十七年製の青いホンダスーパーカブに乗っかっている姿は、正も見慣れている。
「おまえ、上は」
 問題は、服装だった。ヘルメットは被っているし、紺のスラックスも履いているが、龍二は上半身に、白いタンクトップを着ているのみだった。昨日までは、正と同じカッターシャツを着ていた。
「あ?」、と龍二は不思議そうに頭上を見やった。「空がなしたよ」
「いや、制服だって」
「なにが」
「だから制服、なしたのよ、上着。制服の」
「なしたって、こんな暑い日に上着とか、シャツとか着てる方がなしたって思うわ、俺は」
「暑いったって、もう九月っしょ。その格好は寒くねえの」
 さっきまでは全裸になりたい気分もあったが、実際に龍二の肩むきだしの姿を見ると、少しばかり寒気がしてきたので、正はそう聞いてみた。龍二は老けた感じで、肩をすくめた。
「むしろ全裸でいてえよ、あちいんだよ」
「クソ暑い」
「そう、しかも糞暑い。おまえの速度暑いからよ、正、俺先行ってっから」
 言うや否や、龍二はカブの速度を緩やかに上げ、左手を軽く振りながら、先へ行った。
 龍二はこうと決めたら、早いやつだった。昔からそうだ。保育園の頃からだ。球蹴りをすると決めたら、ボールを他人から奪ってでもやる。歌を唄うと決めたら、自分の気が済むまで唄い続ける。なんの部活動もしていないのに、使いやすいからといって、学校指定のではなく、ボロボロのスポーツバッグを通学鞄として使う。カブに乗るとき、服装は自由にしても、ヘルメットは必ずかぶる。飲酒喫煙は、自宅でしかしない。一度決めたことは、覆さない。誰が迷惑に思おうと構わない。誰が傷つこうと構わない。自分が傷つこうと、構わない。そういうやつだった。だが、正は龍二に傷つけられた覚えはない。だから、身近にいられるのかもしれない。
 そうして龍二は、正の先を行く。正は龍二のあとを追う。習慣だった。いずれ、正は学校に行かねばならないのだ。
 高架下を通る、龍二のカブに乗った後ろ姿が、まだ見える。自転車を思い切りこいでいけば、距離は詰められるだろう。だが、既に太腿の筋肉が張り裂けそうになっている。これ以上、疲れたくはない。かといって、速度を緩めると、むわっとした暑さと、糞の匂いが体中を取り巻いてくる。
 クッソ暑いよなあ、マジで……。
 思いながら、一定の速度を保ち、正は龍二のあとを追う。


   二

 B5のノートを扇いで自分に風を送ると、少しは涼しかった。生徒の詰まった教室内は、外と変わらず朝っぱらから蒸し暑い。窓を開け放していても、ろくに風も入ってこなかった。糞の匂いがしないだけ、マシだろうか。
「永田君てさ」
 高めのかすれた声が、右から聞こえた。正はノートを動かす手を緩め、隣を見た。
「相変わらず、斬新だよね」
 感心した風もない、平坦な調子で、正と同じようにノートをうちわ代わりにしている、隣の席の大恒亜矢は言った。
 その顔は、正の左斜め前の席、タンクトップ姿の龍二を向いている。
「斬新か」
「いくら暑くなったからって、九月にあの姿はないしょ。まあ、見てると涼しくなってくるからいいけどさ」
「全裸でいたい、っつってたな、さっき」
「ならないあたり、なんだかんだ冷静だよね、あの人」
 大恒の目は、正を向かない。龍二を捉え続けている。
「大恒さんは」、正はノートを扇ぐ手を止め、思いついたことを聞いてみた。「あいつみたいのがタイプ?」
 大恒は怪訝そうに、細い眉を切れ長の目に近づけた。
「どういうのさ」
「どういうのって……あいつみたいなのが」
 筋骨たくましく、肉体も精神も健康で、独自のこだわりをもっており、財布の紐が固く、農業で成功をおさめそうなタイプ。
「なんで農業?」
「あいつの実家、農家だからさ。イメージ的に」
「自営業は好きじゃないな」、大恒は冷めた顔だ。「公務員がいい。食いっぱぐれないしょや」
 正の父は、公務員だった。市役所に勤めている。確かに、食いっぱぐれてはいない。ただ、父の同僚は、以前ローカルニュースで名前を出されていた。悪い意味でだ。
「公務員っても、不祥事起こしたらクビじゃねえの、お国に抱えられとる人は」
 正が言うと、大恒は眉間にかすかにしわを作った。
「不祥事起こすような人はいやだよ。どういう場合でも、クビが飛ぶから」
 大恒は、本当にいやそうだった。地盤がしっかりしていないやつが、嫌いなのかもしれない。大恒とは、今年から席が隣同士になった。大恒亜矢。抜群に顔立ちがよく、色白で笑顔が少ない女子だ。肩まで伸びている真っ直ぐな黒髪が、堅固な壁のように見え、とっつきにくい雰囲気をかもし出している。女子の輪からあぶれているわけでもないから、多分、人付き合いは悪くないのだろうが、正はほとんど話をしたことがない。これといって語り合いたいこともないし、それでなにを話せばよいのか、わからないのだ。だから、正からは大恒に話しかけない。だが、大恒はたまに、正に話しかけてくる。そういうときだけ、今のように、話すのだった。
「ホント、すげえいやそうだ、大恒さん」
「いやだもん。バカな人は嫌い。自立してない人も。私は誰の世話もしたくないから。自分のことくらい、自分でまかなえってね」
 父は、大恒のお眼鏡に適うだろうかと思った。公務員で、自立はしている。だが、服の用意など、母に世話をされている。駄目そうだ。一瞬、大恒が自分の母親なら、と想像した。確実にいまより厳しくしつけられそうで、すぐやめた。それだけ想像が可能なほど、大恒の物言いは具体的で、現実味に溢れている。
「現実的だな」、正は感心した。「やっぱ頭いいよ、大恒さんは」
「どこがさ」
 真剣に感心した正の脳味噌を、大恒は真剣に疑っている顔をした。申し訳ありません、という感じで正は肩をすくめた。
「現実をわかるって、それだけで頭いいんじゃねえかって」
「それわかったって、具体的にどうこうできなけりゃ、単なるでくの坊っしょ」
「うん。正論だ」
「どうだかね」
 嘲笑のような笑みを、大恒は浮かべた。それがぞくりとするほど、綺麗に見える。ただ、美しい。見とれてしまうほどだった。だが、じっと見続けているのも失礼な気がして、正は目を逸らした。ともかく大恒は、正論好きかもしれないが、龍二はタイプではないらしい。あらゆる納得を含め正は軽くうなずいて、会話の終わりを示した。
「なに話してんのよ、荒木」
 終わったところへ、気持ち悪いほど軽やかに、佐藤が入ってきた。タイミングの悪いやつだ。
「いや、別に」
 話の内容を説明することも、そもそも説明していいのか大恒に聞くのも暑くて面倒なので、正はそう返した。
「別にってこたないでしょ」、と佐藤は正と大恒の席の間に入り、左右それぞれの机にそれぞれの手をついて、大恒を見た。「なにか話してたろ。ねえ、大恒さん」
「別に」
 佐藤を見もせずに、すげなく大恒は言った。君もかよ、と佐藤は大げさにずっこけ、にやにやしながら、正の机に寄りかかるようにしゃがんだ。
「二人して内緒話か。なに、俺にも言えないようなヤバイ秘密が二人の間にあるわけ? CIAにでも追われてるとか?」
 大恒はやはり佐藤を見もせずに、そしてなにも言わずに、うちわ代わりにしていたノートを机の上に載せ、開いた。国語のノート。一時間目の授業のものだ。佐藤を無視する態勢であることは、明らかだった。佐藤俊男。華のある容貌、襟足の長い茶髪、筋肉の適度についた細い体、明るい性格、良い成績、公立高校にしては強いサッカー部のエース。この佐藤に話しかけられて無視できる女子は、大恒くらいだろう。この佐藤を無視しても表立った反感を買わない女子が、大恒くらいなのだ。
 だが、正は大恒とは違う。佐藤を無視すれば、佐藤の友人やファンから、何様だと思われるに違いない。思われても構いはしないが、正は佐藤とそう親しくもない。そんなやつへの態度だけで、他人から悪い評価を下されることは、愉快ではない。それを抱えてまで、佐藤を無視するほどの強い気持ちも、正にはなかった。
「大した話じゃねえよ。アメリカから狙われるようなこと、なにもしてねえし。安全第一」
 そう言った正ではなく、大恒を佐藤は恨めしそうに見ながら、しかし正に言った。
「トモダチなら、包み隠さず何事も話すべきじゃないかね」
 俺、おまえとトモダチとかじゃねえべや、と心の中で呟きつつも、まあな、と正が言おうとしたとき、
「トモダチだからってなんでも話したら、気持ち悪いっしょ」
 無視を決め込んだと思われた大恒が、口を開いた。やはり、正論が好きなのかもしれない。
「え、ナニナニ」、佐藤は水を得た魚のように跳ね起き、興味津々といった体で大恒に笑いかけた。「もしかして亜矢ちゃんさ、なんでも話して裏切られた過去とか持つ系? そんで傷を抱えて壁作ってる系?」
「荒木君、さっきの話は内緒ね」
 佐藤に見られている大恒が正を見ると、佐藤も正を見てくる。美形二人に揃って見られると、薄っぺらい顔立ちで存在感まで薄っぺらいものとされがちな正は、気圧される。片方の視線には若干邪気がこもっているので、なおさら圧迫感がある。佐藤の視線だ。佐藤は色んな人間に、たびたび大恒がいいと言っている。この一刀両断さがたまらないらしい。そんなマゾヒストに恨まれたくもないが、だからといって大恒を無視するのも、失礼に思える。
「はい、内緒にします」
 正が大恒にうなずくと、佐藤がわざとらしく睨んできた。嫉妬心丸出しだ。女々しいやつである。
「荒木、おまえトモダチ甲斐のないやつだよな」
 じめっとした声で佐藤が言った。だからおまえ、俺とトモダチじゃねえべ。思ったが、それを口にするのもなんとなく大人気ない気がして、今度こそ、まあな、と正は言おうとした。
「うおうっ」
 また、言えなかった。佐藤が変な声を上げ、突然正と大恒の机を揺らし、地面に倒れ込んだから、正は声を呑み込んでしまった。いてえ、と佐藤は尻を押さえている。正は、先ほどまで佐藤が立っていた方を見た。
「これ、ありがとな、大恒」
 龍二がいた。大恒の机に文庫本を置き、そう言った。どうやら佐藤の尻あたりを蹴り上げて、道を開けさせたらしい。
「ああ」、大恒は倒れている佐藤を見もせず、文庫をぺらぺらと開きながら、ついでのように言った。「どうだった?」
「暇なときにしか読めねえわな、村上春樹は。どこまで読んだか忘れちまう」
「でも、最初の頃の作品はまだ短いから」
「そこが俺の限界だ。他、なんかおもしれえのある?」
「芥川は読んだんでしょ。じゃあ、坂口安吾とか」
「何書いた人よ」
「白痴とか……堕落論とか」
「読んでねえわ。次頼む」、龍二は言い、まだ倒れている佐藤ではなく、正を見下ろした。「おまえ、きょう暇?」
「ああ」、正はうなずいた。部活をやっていないし、委員会にも入っていないし、出かける予定もない。「なんもすることねえな」
「したらよ、うち来いよ。俺も暇だから、勉強すんべ」
 龍二が勉強すると言ったら、本当に勉強をする。成績が下がると、農家の手伝いをさせてもらえないから、一定のレベルは保っていなければならないらしい。勉強。乗り気はしないが、テストも近い。正は、私立大学進学を考えている。成績は大切だ。
「そうだな。そうするか」
「したっけ帰り、一緒にな」
 そう言い、席に戻ろうとした龍二のタンクトップを、
「永田ァ」、起き上がった佐藤が、後ろから掴み、引き止めた。「おまえ人蹴っといて謝罪のひとつもないって、人としてどうよ」
 佐藤は笑っていたが、その顔は思いきり引きつっていた。龍二は邪魔そうに佐藤を見て、背中にあるその手を払った。
「邪魔くせえからよ、おまえ。仕様がねえだろ」
「よけろ言われたらね、俺だってよけますよ。ええ、よけます。退散いたします。だからまず一声かけろ、いきなり実力行使は非道すぎるぜ」
「おまえに声かけっと、話なげえんだよ。なんの用だのなんだのとうざってえ」、龍二は心底から鬱陶しそうに言った。「俺が大恒に用あるっつってもおまえ、どうせ突っかかってくるべや」
「キミね」、佐藤はますます顔を引きつらせた。「誰が突っかかるってのよ、誰が」
「お前だべ。聞こえてねえのかよ。サッカーボールにぶつけまくって頭おかしくなったんでねえの」
「失礼なやつだな。クソ、大体永田、おまえに俺の気持ちがわかんのかよ」
「わかんねえし、わかりたくもねえ」
「俺の存在を全否定する気かよ、おい」
「俺、そこまでおまえに興味ねえわ。邪魔なだけだ」
 明るく社交的で、調子に乗ることもあるがどこか憎めないところのある佐藤を、こうまで馴れ馴れしいものとして煩わしがるのは、男子では龍二くらいだった。正も、よく鬱陶しいやつだとは思うが、表には出していない。それもそれで、面倒だからだ。龍二は、誰の目にもわかるほど、はっきりと佐藤を厭っている。そういうやつなのだ。誰を傷つけようが、自分が傷つこうが、自分の思いを貫いていく。協調性には欠けているが、その選択を悔やむ様子はない。
 女子では唯一、大恒がそうだ。大恒の場合、クラスの女子の輪にも加わっているし、協調性がないとは言えない。ただ、佐藤のことは明らかに疎んじる。その点で、二人は似ていた。図書委員の大恒と、図書室をよく利用する龍二は、小説をよく読むというのも、共通点らしく、本の貸し借りもしている。たまに、二人で話している姿も見る。だが、それだけの関係のようだ。龍二はクラスの中では最たる美人であろう大恒を、まったく意識していない。大恒は大恒で、体格の良い龍二相手にも臆することないが、過度に関わることもない。
 それでも、佐藤は龍二に食ってかかる。龍二が佐藤を邪険にするからというのもあるが、嫌がられる相手にまで近寄るほど、無神経な佐藤でもなさそうだった。休み時間、一人佐藤が鏡の前で立っている便所へ、正は入ったことがある。よお荒木、とすぐに笑みを浮かべたその顔は、正に気付く前、暗鬱さを漂わせていた。孤独に慣れていないのか、あるいは孤独を必要としているのか、ごくまれに、病んだ雰囲気を出すやつだった。そういう佐藤が、嫌悪感を隠さず接してくる龍二にもまともに言葉を返すのは、大恒と龍二の不思議な関係への嫉妬もあろうし、態度をごまかさない龍二への安心感もあるのかもしれない。正確なところはわからないが、ともかく、佐藤は龍二に対しては、笑って流すということはしないのだった。
「そこまで言われると、心が広いことで有名な俺もさ、ちょっと傷つくよ、永田君」
「心が広い。誰がおまえを寛容ってんだ、佐藤」
「うちの兄ちゃんはね、俺ほど優しい人間を見たことがないと仰ってますよ、ええ」
「哲男さんが?」、龍二は興醒めしたように太い眉を上げた。「うそだろ」
「うそじゃねーよ」、佐藤は子供のように唇をとがらせた。「いまうち帰ってきてっし」
「哲男さんか」、哲男は佐藤の兄だ。正も龍二も知っている。佐藤俊男についてよりも、よく知っている。正は佐藤に尋ねた。「いま大学だっけ?」
「夏休みだからって、帰省だよ。お土産もねえでやんの」
 哲男の話になると、佐藤は途端に幼稚な態度を取る。それについて正は、嫉妬だろうと思っている。とりあえず佐藤がなにかに突っかかる場合は、なんでも嫉妬のためであると正は思っている。直感だ。根拠はない。正否を確かめる気もない。所詮、他人のことだからだ。
「はあ?」、と龍二が声をひっくり返した。「大学生ってまだ夏休みかよ。頭腐んねえのか」
「バイトとかやってるらしいし。ま、いいんじゃねえの、ながーい休みがあんのなんて学生時代だけだろ。モラトリアムを満喫しないと。だからって彼女連れて来られると参るけどよ。何で俺が、お兄様の彼女様に気を遣わなきゃいけないわけ?」
 いつにも増して口早に語り、卑屈な笑みを佐藤は浮かべた。それを気にした風もなく、龍二がふうんと頷き、したっけ正、と言った。
「勉強する前によ、哲男さんに会い行くか」
 そりゃいいな、と正は言った。哲男が大学に行ってから三年、一度も会っていない。連絡を取り合ってもいなかった。そこまでしたいとも思わなかった。だが、名前を聞くと、懐かしくなる。坊主頭の柔和な顔、抑揚が一定している語り口、思いつきに溢れている言葉。記憶が蘇ると、会いたい、確実に、そう思えた。それに、彼女連れなら、一層興味がわく。
「決まり」
 龍二が自分の席に戻ろうとする、その厚い肩を佐藤が掴み、いやいや、と頬をひくつかせながら笑った。
「ジョーダンでしょ、キミタチ」
「や、俺暇だし」、と正はうちわを上げた。
「俺は暇じゃねえけど、今日はそのくらいの時間はある、というか今日しかねえ」、と龍二は言った。龍二にしても帰宅部だが、家の農業の手伝いもしているので、いつも暇というわけではない。
「俺が忙しいっすよ。部活もうすぐ試合なんですよ」、とサッカー部のエースがげんなりした顔を見せた。
「誰もお前に来いとは言ってねえべ、サッカー頑張れよ」
 龍二は当然のように言い、佐藤の手を自分の肩から払って席へ戻った。
「……そんなんアリ?」
 佐藤の苦笑いが正に向いた。まあ、ナシかアリかで言えばアリだろ、と正が言うと、予鈴が鳴り、同時に担任が教室に入ってきた。頭をがりがりと掻き、はあ、とため息を吐いた佐藤が大恒を見たが、大恒は完全無視のスタイルを確立していたので、佐藤は諦めたように自分の席に戻った。正はとりあえず、机の上に出していたうちわを、端に下げている鞄に突っ込んだ。


   三

 龍二には三つ年上の姉がいる。正の兄の後輩で、よく顔を会わせた。龍二に似て高身長で濃い顔だが、高校生にしては筋肉質の龍二とは違い、すらりとした体型の女性だった。その龍二の姉と、佐藤の兄である哲男は高校のクラスメイトで、その縁で龍二は哲男を知り、正も哲男を知った。
「いま家にいんのかね、哲男さん」
 スーパーカブで車道の端を走る隣の龍二に、自転車で歩道の端を走る正は聞いた。龍二は正に速度を合わせている。午後とはいえ、太陽はまだ上空で輝いており、ぬるい温度なのだろう、タンクトップからのぞく、龍二の焼けた肌には粒の汗が浮いているが、龍二が先へ行くということは、なかった。学校から出る際、哲男の自宅を知らない正は、先行っていいぜ、道教えてくれたら、と、カブにまたがっている龍二に言ったが、一緒に行くっつったべや、と当然のように言い、龍二はカブのエンジンをうならせた。約束を違えることはない、それも龍二の特徴だった。一緒に行くと約束していれば、一緒に行く。約束していなければ、先に行っていただろう。融通が利かないといえば、そうかもしれない。だが、正としては、有言実行の龍二は、筋の通ったやつというだけだった。
「いなけりゃまあ、帰るべ」
 龍二は傍を通る車のエンジン音や排気音、自分のまたがるエンジンのうなる音に負けぬ、通った声を出す。
「おまえ、哲男さんのメアドとか、知らんの」
「知らん」
 即答だった。龍二は携帯電話を持っているが、ほとんど携帯していない。ただ誰かと遊ぶために、自発的に連絡を取るということもないやつだった。正は、龍二を介して哲男と知り合ったようなものだから、連絡先を聞くまでは、いかなかった。哲男は農業に興味があり、農家である龍二の家に、よく通っていた。その哲男の送り迎えを、自転車でしてやっていたのが、中学生の龍二だった。だから龍二は哲男の自宅を知っている。だが、哲男の弟である、佐藤俊男の存在を知ったのは、今年同じクラスになって、はじめてだった。弟がいるとは、もちろん聞いていた。おまえらと同い年だ、と哲男はどこか自慢げに言っていた。ただ、自分も龍二も興味がなかったので、聞き流していた。それにしても、哲男の自宅まで何度も哲男を送り届けていた龍二まで、佐藤俊男を知らなかったというのはどうかと思うが、しかし、人間興味のないものには、目が向かないものなのかもしれない。哲男の連絡先についても、そうなのだろう。
「三年か」
 そのころ正は中学生だった。二年生。哲男は高校三年生で、受験ってのは戦争だ、と真顔で言っていた。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。哲男は第一志望の道央の農業大学へと進んだが、勝ったかどうかは聞いていない。
「長いと思うか」
 龍二が聞いてきた。何か、意味深長だった。
「わかんねえな」、正は少し考えてから、言った。「成長はしてると思うけどよ、三年前より。長いか短いかってのは、わかんねえ」
 教室内に、妙な緊張感と、入り組んだ人間関係のあった中学時代。それを避けるように、野球をやっていた。いま、運動に打ち込まずとも、誰かと一緒でなくとも、自分の時間を過ごせるようになったのは、成長したからだろう、と正は思う。ただ、哲男と会っていない三年間を思うと、色んなことがあったようで、ただ過ぎていったようでもあり、長短については、感覚が及ばなかった。
「そうだな。俺もそうだ」
 それで、会話は終わった。深い意味はなかったようだ。あるにしても、龍二は言わないだろう。正も聞かない。気にならないからだ。
 学校から駅を越えて南下すると、一軒家の立ち並ぶ地域に出る。正はほとんど足を踏み入れたことがない。このあたりに住む友人など、いなかった。龍二はすいすいとカブを進めていく。慣れているようだった。何十回と、哲男の送り迎えをしていただけのことはある。それも、自転車でだ。
 部活やらねえなら、少しは鍛えろってよ。
 十三歳の少年らしからぬ、大人びた龍二の顔が、正の脳裏によみがえる。中学一年生、昼休み、一緒に弁当を食べているとき――クラスが離れ、放課後の過ごし方がそれぞれ違うようになってもなお、昼休みだけは今でも一緒に飯を食っている――、龍二は言っていた。まあ、色んな人の話聞いた方が、役に立つってことなんだべな。
 そのころ自分は、野球部に入り、毎日白球を追いかけていた。人の話は、あまり聞いた覚えがない。成長、しているのだろうか。いまも正直、人の話はさほど覚えていない。怪しいところだな、と思った。
 家は並んでいるのに、田舎道のように、人が通らない。三、四人の小学生や、中学生が、たまに揃っているくらいだ。若い女性が一人というのは、珍しかった。ウェーブのかかった長い黒髪、大きな玉がいくつも描かれた模様のある、原色ワンピース、高いヒールのサンダル、つんとした歩き方。やたらと紐のついた、大きなバッグを抱えている。家事に疲れた奥様には、とても見えない。
「似合わねえ人だな、この辺に」
 後ろ姿まで見届けてから、正は言った。
「そうか?」、と龍二は首をかしげた。「頑張れば似合うだろ、この辺でも」
「……その頑張りってのは、逆ベクトルだよな、普通とは」
「ベクトルの意味わかってんのかよ、おまえ」
「まあ、ほどほどに」
「まあ、ほどほどわかってりゃ、いいさ」
「いいのかよ」
「そういうもんだべ」
 そういうものなのかもしれない。だが、復習はしておいた方がよさそうだった。
「そこだ、哲男さん家」
 適当なことを喋っているうちに、龍二が左前方を指差した。
「どれよ」
「青い屋根。ほれ」
 青い三角屋根、茶色の壁の一軒家だ。近づくにつれ、その玄関に向かう階段に、誰かが座っているのが見えた。
「あれ、誰かいねえか」
「あ?」
 龍二が歩道にカブを停める。正はその後ろに自転車を停め、佐藤の家へと歩いた。その階段に座っている男は、俯いたままで、顔も上げない。青いチェックのネルシャツにジャージ、サンダル。長い茶髪が、顔の輪郭を覆っている。
「何してんすか、哲男さん」
 龍二が、声をかけた。男が顔を上げる。眉の薄い、柔和な顔立ち。哲男だった。坊主頭が長髪になるだけで、今風の容貌になるものだった。
「……あれ、なんだ。龍二か。あ、えー……正もか」
 呆けた声だった。夢の中から、たったいま出てきたような感じだった。正は一応、頭を下げた。
「ども、お久しぶりっす」
「おお……ああ、うん。久しぶりだなあ。何年だ。二年くらいか。俺、しばらく帰ってねえから。それにしても、久しぶりだ。あんま変わってねえわな、おまえら」
 哲男は、笑顔を見せた。それにはどこか、翳りがあった。
「何年かっつったら、三年じゃねえすか。俺が中三になったときだから」
 龍二が冷静に言う。三年か、と哲男は顔を伏せて頭を掻いた。長いな。そう呟き、ぱっとまた顔を上げた。
「俊男とは、どうだ。仲良くやってるか」
 龍二と野菜の話で盛り上がることの多かった哲男の口から、まず俊男の名前が出てきたところに、違和感を覚えないでもなかったが、正は答えた。龍二はどうせ、俊男のことには触れたがらない。
「まあ……普通です」
「そうか」、安心したように笑い、哲男は龍二を見上げた。「龍二、おまえは」
「俺にとっちゃ、あいつはどうでもいいやつですよ」
 堂々と言い切るあたり、龍二だった。哲男も困ったように、しかし納得しているように笑う。俊男についてこれだけ話題が出るというのも、昔はなかったような気がする。佐藤がどうかしたんですか、正がそう聞く前に、哲男が声を出した。
「正は、俊夫のこと、どう思うよ」
 男同士でどう思うかというのも妙だが、佐藤が対象となると、ますます妙だった。つい、顔がゆがんだ。
「特には、どうとも。たまに、鬱陶しいくらいで」
「はは。いいな、おまえらは。だから俊男は、おまえらがいいんだべな」
 しみじみと、哲男が言う。正は顔を一層ゆがめており、龍二も龍二で、その濃い顔に深くしわを刻んでいた。哲男が、笑みを引っ込める。
「……二人して、そんな微妙な顔するとは思わんかった」
「俺も、自分がこんな微妙な気持ちになるとは思いませんでした」、複雑な気持ちのまま、正は言った。
「俺はこんなに不愉快な思い、久々にしました」、とまったく心外だというように、龍二は言った。哲男と正が微妙で紛らわせたところを、不愉快と断定するあたり、やはり龍二である。再び笑みを浮かべた哲男が、うん、悪い、とうなずいた。
「俺、長男だからさ」
「はい?」
 長男であることと、いまの話に何の因果関係があるのだろうか。よく思いつきで喋る人ではあったが、きょうの哲男の話は、やけに唐突だった。そして、立ち止まらない。
「父さん母さんらにとって、初めてな子供よ。てんやわんやっつってたな。でも二人目んなったらまあ、二回目なわけよ。慣れるよね。期待とかも、んな大きくなくなる。あいつは、俊男、なんつーか、自由に育てられたってかな。言いかえれば、目ェかけられなかったっつーか。いや、かけられてたんだけど。結構大人しいやつだったから、大丈夫だろうって思ってた部分があって。俺も、そう、あいつは結局、一人でも大丈夫でねえかって」
 佐藤俊男について、正はさしたる興味も持たないが、哲男の言わんとすることがわからない以上、その話を聞くしかなかった。龍二にいたっては、あくびをしたそうな顔だ。まあ、こいつよりゃあマシだろう、俺は、と、正は思う。佐藤についてさしたる興味もないが、龍二と違い、まったくないわけではない。
「俺が大学行くときも、あいつはどっか、冷めてた感じでさ。俺がどこ行こうが関係ねえってよ、そんな顔してたわ。口では頑張れよ、とか言うくせにな。それ俺も、どうのとか言えないんだわ。俺も、一応あいつの兄貴だべや。わかんだよ。血ィつながってっから。あいつの不安とかよ、そういうの、わかんのよ。あいつ、構われたいんだな。俺らが構ってやんなかった分。構われたいのよ。でも、そうされんのも、違うと思うんだと思う。他のやつがされてて、自分されてねえからされたいと思っても、実際されたらちげえってこと、あるべ?」
 伏せていた目を、哲男が上げる。龍二は遠くを見ている。話を聞いている様子はない。代わりに、正は答えた。隣の芝生は青く見える、そういう類の話だろう。隣のやつが食べている弁当のおかずは、やたらとおいしそうに見えたりもする。
「まあ、ありますね」
 正が肯定してから、哲男は話を続けた。俊男の話だ。
「あいつ、目立ちてえけど、目立ったところに、何つーか……普通はねえから。だから、おまえらがいいんでねえかな」
 そこに、帰結するらしかった。
「なんすか、それ」
 疑問を呈したのは、龍二だった。話を聞いていないようで、聞いていたらしい。哲男は、真面目な顔をして、語る。
「普通がよ、いいんだと思う。居心地いいんだと思う。でも居心地いいのって、構われねえってことなんだよ。あいつ、構われてえのよ。構われてえけど、構われんのは、居心地悪いのよ。そんなんじゃ、イライラもしちまうわな」
 また頭をガリガリと掻き、哲男はため息を吐いた。
「俺が彼女連れてきてさ。愛想いいんだよ。あいつは。いい弟演じてやがる。でも、結局、兄貴ヅラすんじゃねえとか、思ってんだよな。俺のこと。兄弟ってよ、なんかどうも、なんかうまくいかねえもんだな」
 そんなこともねえべ、思ったが、正は言わなかった。正は自分の兄と、特別うまくいっていることもないが、うまくいかなかったということもない。龍二の家は、姉と弟で歯に衣着せぬ物言いをし合っているが、険悪さはない。その兄弟兄弟、家族家族で、事情は違う。哲男の家族、兄弟は、なんかうまくいってねえ、そういうことだろう。哲男には、それがすべてに違いない。
「で、なにしてんですか」
 哲男の話が終わったと判断したのか、龍二は会ってすぐした問いを、繰り返した。哲男の答えが、なかったからだ。
「……まあ……途方に暮れてた、かな」
 今度は哲男が遠い目をした。その視線の先を見てみたが、道路と家以外、何もなかった。正は哲男に顔を戻して、聞いた。
「彼女ができたのに、途方に暮れてたんですか、哲男さん」
「うん」、哲男は自嘲気味に笑った。「や、逃げられちゃって」
 正は龍二を見た。龍二も正を見た。不可解そうだ。正は言った。
「逃げられた?」
「田舎はもうイヤ!」、哲男が叫び、肩をすくめた。「ってさ。走ってっちゃった。あっちの方に。っていうか駅かな、荷物持ってったし」
 哲男が指差した方は、確かに駅の方だった。今度は龍二が聞く。
「追わないんすか」
「いやー……」
 肩をすくめたままの哲男は、随分と小さく見えた。出てくる声も、小さくなっていた。
「好きなんだけどさ。その、彼女のこと」
「はあ」
「俺がさ、好きってことが、そういうの、あいつの負担になんだったら……俺、押し通したくねえんだわ」
 哲男の言葉からでは、正確な事情は知れないが、複雑そうであることは窺えた。俊男について先に語ったのは、彼女に逃げられた話のクッションにするためだったかもしれないが、それにしては熱心だったので、俊男とのなんかうまくいかねえ関係も、影響を及ぼしたのかもしれない。いずれにせよ、正には、なんとも言えないことだった。自慢ではないが、恋愛についてはからしき疎い。ましてや田舎を嫌う女性の心など、田舎好きの母親をもつ正には、いまいちぴんとこない。
「したら、俺ら追ってきますよ」
 それが自然であるかのように、龍二が言った。
「は?」、正と哲男は揃って声を上げていた。
「行くべ、正」
 言いながら、歩道に停めているカブへと、龍二は向かう。
「ああ、おう」
 勉強する前に、哲男の彼女を追いかけるのも、オツかもしれない。正はそう思いながら、龍二の後を行った。
「え、おまえら、ちょっと」
 階段に座ったままながらも、哲男は焦りを露わにしている。
「まあ、適当にしててください」
 龍二はヘルメットを被りながら、哲男に言い、エンジンをかけた。
「俺ら追ってきますんで。気にしないでください」
 正は付け加えた。え、ちょっと、とばかり言う哲男を置いて、正は自転車に乗り、龍二を追った。


   四

 哲男の家から駅までの道、その間というところだった。原色に、大きな水玉模様の黄色のワンピース。哲男から、彼女の外見について聞いてはいなかったが、田舎はいやだと逃げるような女性で、駅に向かっているならば、それしかないだろうという思いがあった。話はしなかったが、龍二も同じらしかった。歩道を行く女性を見つけると、龍二は素早く車道から、その先に回り込んだ。歩道に乗り上げ、女性の前で停まる。ところどころに錆びの見える青いスーパーカブ、制服の黒いスラックス、しかし九月のタンクトップ、そしてヘルメット、濃い顔。明らかに、不審だった。
「哲男さんの、彼女ですよね」
「……なに?」
 龍二が声をかけると、女性は半歩後退った。龍二はどう見ても不審で、物言いは若干不躾だった。
「哲男さんの彼女ですよね、って聞いてんですよ」
「……だったら、なんなの」
 不審でも不躾でも、ともかく哲男の彼女には辿りつけたようだ。
「ちょっと話したいんすけど」
「はあ?」
「そこの公園、来てください」
「なによ、あんた」
 一触即発の空気が、漂い出していた。正は慌てて、その間に割って入った。
「あー、いや、すんません、俺ら哲男さんの、はい。えーと、後輩みたいなもんです」
「……はあ?」
 女性は怪訝そうに、顔をしかめる。声は刺々しく、顔もどこか刺々しい。目がつり気味で、狐のような印象があった。龍二はカブにまたがったまま、女性を睨むように見ている。睨んでいるわけではない。地の顔が、いかつくおっかないだけだ。だが、初めて会う人間は、ガンを飛ばされていると感じても、おかしくはないだろう。交渉役としては、適切ではない。正は龍二の前に出て、自転車から降り、続けて女性に言った。
「あの、駅まで行くんですか?」
「……そのつもりだけど」
「その前に、ちょっと話しませんか、俺らと。そこの公園で」
 丁度、右斜め前方に、子供たちが遊んでいる公園がある。東屋には人気がなく、話すには良さそうだ。だが、女性の警戒は解けない。正は言葉を探した。
「や、えー、俺ら、そこの高校の生徒なんですよ。東高。不審なモンじゃないですから。別にどうこうってわけじゃなくて」
「え。なに」
「お話、しませんか」
「……遠慮します」、言って女性は正の横を通ろうとした。龍二の前に女性が出ると、また険悪な雰囲気が訪れそうで、正はそれを恐れ、女性の気を引きそうなことを考えた。
「哲男さん、あなたのこと、好きだって言ってましたよ」
 案の定、女性は立ち止まった。逃げ出したとはいえ、恋人だ。効果はあったらしい。女性は龍二を睨んでから、正を向いた。まだ、警戒心が、その全身に満ちていた。
「なんなんですか、あなたたち」
「あー、ですから、あれです。後輩みたいなもんです。哲男さんの」
「あなたらに関係ないでしょ、うちのことなんて」
 言って、また女性は龍二の方、すなわち駅の方を向き、歩き出そうとする。
「哲男さんのこと、嫌いじゃねえならよ」
 そこへ、鋭い刺のようなものを含んだ、龍二の低い声がかけられた。女性がまた、立ち止まる。忙しいものだ。
「だからなんなの、あんたら」
「田舎がいやなだけなら、話しようもあるべや。感情的に動いたって、後悔するのが関の山だ。冷静になったらどうですか。二十歳越えてんでしょ、あんた」
「あんたらに言われたくないっての」
 唾でも吐きそうな勢いで、女性が言う。こんな迫力をもつ女性が、哲男の恋人というのも疑問をもたらすが、龍二と女性の間に流れる剣呑な雰囲気の前では、それもかすむ。正はもう一度、龍二と女性の間に割って入り、説得を試みた。
「あのー、ちょっと話してくれたら、俺駅まで後ろ乗っけますよ。自転車ですけど、歩きよりゃマシでしょ」
 大きなバッグを抱え、ヒールの高いサンダルを履いて、状態の悪いアスファルトを一人歩くよりは、見ず知らずの他人の自転車の荷台であろうとも、乗れる方がいいはずだ。五分五分、と正は見込んだ。プライドの高そうな女性だから、それでも断るかもしれない。だが、歩かなくていいのは、魅力的なはずだ。
 女性は正をうさんくさそうに見てから、
「なに話したいのさ」、ぼそりと言った。
「とりあえず、まあ、そっちに。どうぞどうぞ」
 正直、龍二に誘われて、追うのも時間潰しになるだろうからついて来たまでで、正には女性と話したいことは、特にない。哲男との関係は気になるが、なにもかもかなぐり捨ててまで知りたい、というわけでもない。だから、正はまず、女性を公園へと誘導した。この女性に対して、話をしたいと先に言ったのは龍二だから、龍二が話をするだろう。確信が、あった。有言実行するのが、龍二だ。
「別に話すことないんだけど、うち」
 公園の入り口に自転車とカブを停め、端にある東屋の、落書きの多いベンチに座り、煩わしそうに、女性は言った。
「哲男さんと、何があったんですか」
 スポーツバッグを肩に提げ、立ったまま、東屋の柱に背をつけ、龍二が言う。
「あのさ。何で見ず知らずの人にそんなこと話さなきゃなんないわけ」
 苛立ちを隠さぬ女性に対し、龍二は臆しない。
「話したいしょ、あんた」
 女性は龍二を睨み上げる。龍二は女性を見下ろす。互いに、無言だった。このままでは、話が進みそうもない。テーブルを挟み、女性の前のベンチに座った正は、間を埋めるように、言った。
「俺ら、哲男さんの後輩みたいなもんなんですよ」
「何度も聞いたって、それ」
 龍二を睨んだまま、女性は言葉を返してくる。ふと、佐藤のようだと思った。龍二を睨みながら、こちらに言葉を振ってくる。だが、この女性の視線の厳しさに比べたら、佐藤の嫉妬など、可愛いものかもしれない。
「怪しいもんじゃないんです。ホントに。あ、えーと、自己紹介。俺は荒木正。こっちは永田龍二。東高の二年生。哲男さんとは、中一からの知り合いで、でも俺ら中三のとき哲男さん大学行ったんで、正味は大体、二年くらいの仲か。まあ、そんな感じです」
 言い終えると、沈黙がおりた。
「沢野絵里」
 だが、女性――沢野絵里がすぐに、それを破った。
「沢野さん」、正は確認するように言った。沢野はつまらなさそうにうなずいた。
「哲ちゃんとは、友達の紹介で知り合った。友達の彼氏の友達でさ。別の大学通ってるって。でも、哲ちゃん、優しいから」
 一応、自己紹介ということなのかもしれない。名前はわかった。
「だから、嫌いにでもなったんすか」
 黙っていた龍二が、どこか投げやりに言った。中学一、二年生のころ、同級生とは話が合わないとたまにこぼしていた龍二が、一番腹を割って話していたのは、哲男だったかもしれない。その分、哲男の現状は、気になるのだろう。だが、沢野絵里とはあまり、口を利きたくないのかもしれない。投げやりな調子が、それを示している。この短時間で、よくそこまで厭えるものだ。感心してしまう。
「荒木君?」
 沢野絵里も、龍二は気に食わないのだろう、龍二の問いには答えず、口元に笑みを浮かべ、正を見た。
「はい」
「ここ住んでて、つまんなくない?」
 細くなっている目は、笑っていなかった。正は龍二を見た。答えるまでもない、というように、龍二は肩をすくめる。正は沢野を見た。沢野は口だけで笑っている。
「俺は、別に」
 家の近くの景色は単調だし、街にはこれといって盛り場もないが、いまの日々は、嘆きたくなるほどつまらなくもない。学校が、勉強がなくなれば別かもしれないが、まだ高校生である現状においては、正はそこまで退屈してはいなかった。
「そう。いいね。うらやましい」
 沢野は含みを持たせた調子で言う。正がしかめた顔で、どういう意味かと聞くと、沢野は嘲るような笑みとともに、よどみなく言った。
「一昨日からうち、ここ来たんだけどさ。つまんないの。外に出たって家ばっか。あと田んぼ。道だって車しか通ってない。活気がないよね。車じゃなきゃ、遠くまで行けない。けど哲ちゃん車持ってないしね。どこにも行けない。家の中。人の家だよ。一日中テレビ見てろっての? どっか観光するとかさ、美味しいもの食べに行くとかあるじゃん。まああったけど。でも、どこ行っても哲ちゃんの知り合いがいる。知り合いばっか。狭い感じ。監視されてるみたい。だからいやになっちゃった。狭すぎるんだもん、この街」
 沢野の言葉の一つ一つが、正の腹へ突き刺さった。臓腑の煮え立つ思いだった。この街をつまらないと思ったことがないといえば、うそになる。つまらない、その通りだろう。娯楽施設の乏しい田舎、閉塞的な環境。夜景が綺麗な場所があっても、時間を忘れて楽しめるものは、まずない。つまらない、その通りだ。つまらない、理屈として、そう思う。だが、自分が思うのではなく、他人からつまらないと連呼されることが、これほど不愉快だとは、思ってもみなかった。不意打ちだった。この程度のことで、うろたえたくはなく、感情を抑えることのみに、正は集中した。
「田舎は嫌いなの。寂しくて、狭くて、つまんない」
 沢野絵里が、呟く。その呟きにすら、腹を刺される。顔に血がのぼっていくのが、わかった。泳ぎそうになる目を、俯いている沢野絵里の顔に、なんとか据え続ける。友人同士の会話で、この街は田舎だ、と言うのは、よくあることだ。それは、大して気にならない。沢野絵里が言うと、駄目だ。ひどく腹が立つ。手を出したくなるほど、腹立たしい。それでいて、なにか、優越感のようなものもある。知らないのだ。沢野絵里は、この街の深みを、知らないだけだ。
「よく平気だよね」
 また、呟く。沢野絵里はそして、顔を上げた。つりあがった目が、正を捉える。正は、一旦目を逸らして、心を静めてから、沢野絵里を見直した。
「俺ら、ですか」
「うん」、沢野絵里はまた、口だけで笑う。「ここずっと住んでたら、うちなら頭おかしくなっちゃう。病気になるね。不健康だよ、ここは」
 沢野絵里の笑みが、そこで途切れた。薄い唇が、死にかけの生き物のようにひくひく動く。正は沢野絵里を見続けた。龍二も見下ろしている。ひとしきり動いた沢野絵里の口から、震えた声が漏れてきた。
「それ言ったらさ。哲ちゃん、怒っちゃって。怒らない人なのに。なにやっても。うちがなにしても。怒らない人なのに、怒ったんだよ。バカにすんなって。いなくていいって。出てけって。この街から。哲ちゃんのことは好きなのに。うち、ここは好きになれそうにないのに」
 声の震えは、段々とおさまっていった。感情の失われた沢野絵里の顔が、そこにあった。割り切ったものを、感じさせられた。それが、沢野絵里の答えらしかった。哲男を嫌いになったのではない。この街が、嫌いなのだ。
 むかついた。吐き気がしそうなほど、正はむかついた。人の住んでる街を、人のことをバカにしやがって。だが、能面のような沢野絵里の顔を見ると、この人も、切迫しているのではないかと思えた。たかが好き嫌いだけで、追い詰められている。たかが、好き嫌いだ。他人の好き嫌いで、一喜一憂するのは、それこそバカらしい。考えがそこに至ると、一気に心が落ち着いた。
「ね」、沢野絵里が、今度はしっかりと笑った。「どっちでもいいから、哲ちゃんにそう伝えてくれないかな。うち、ここが好きになれないだけで、哲ちゃんのことは好きなんだって」
「俺は断る」
 明瞭に、龍二が言った。沢野絵里の目が見開かれる。正も、驚いた。龍二の返答が、あまりに早かったからだ。
「おまえ、そんな即答せんでも」
「嘘つきの言うことなんざ、聞いてられっかよ」
 言うや否や、龍二は東屋から出て行こうとする。嫌気が差したかこいつ、と正が思っているうちに、沢野絵里が龍二を引き止めた。
「ちょっと、嘘つきってなに」
 龍二が止まり、不快そうな表情で、沢野絵里を見やる。
「結局あんた嫌いなんだべ、哲男さん」
「好きだっつってんじゃない」、沢野絵里が、反射のように素早く言った。「好きなんだよ。哲ちゃんは好き。この街が嫌いなの、うちは」
「なに言ってんだあんた」、龍二は沢野絵里を見下す調子で言った。「この街が嫌いってことは、そこで生まれ育った哲男さんも嫌いだってことだ。故郷ってのはよ、その人の一部だろ。絶対どっかで触ってくんだ。そこ触らねえでその人好きっつったって、全部じゃねえよ。都合のいいとこだけ見てたって、ボロ出るに決まってんべや。だから帰んだべ、あんた。帰れっつわれたから、帰んだべ、ろくに話もしねえでよ。じゃあ帰れよ。おまえも哲男さんも、言葉使わんで済まそうって腹ならそれでいいわな。行くべ、正」
 ベンチに座ったまま、龍二の弁を聞いていた正は、名を呼ばれ、慌てて通学バッグを持って立ち上がった。
「これでどこ行くのよ、おまえ」
「勉強するべ。テストちけえし」
「この人は……」、なにか言いたそうに、しかし言葉が見つからないように立ち尽くしている、沢野絵里を見てから、正は言った。「っつーか、哲男さんは?」
「あの人は、話できる人だと思ってたけどよ。押し通したくねえとか言ってたろ。バカでねえの。あの人だって見たくねえだけだべや。くだんねえ。もう構わん」
「バカにしないでよ!」
 聞き取りにくいほど、荒れた女性の声だった。子供のいる公園には似合わない、悲痛な叫び声。沢野絵里が、叫んだのだった。面倒そうに、龍二が沢野絵里を見る。
「はあ?」
「哲ちゃんは、優しい人なの。すごくすごく、優しい人なの。くだんないってなに、バカとかなに。ふざけんなよ。哲ちゃんは、世界で一番優しい人だよ!」
 叫びながら沢野絵里は、握った拳で龍二のむき出しの肩を叩いた。
「って」
 叩いて、叩いて、叩く。止まらない。沢野絵里は拳でもって、龍二の肩を殴り続ける。龍二は痛そうではなく、いやそうに顔をしかめている。沢野絵里の動きを止めることすら、いやそうだ。他に止めてくれそうな人もいないので、正は後ろから、沢野の腕を掴んだ。
「ちょっと、落ち着いて、沢野さん。そいつは龍二です」
「わかってるっての! 何様なのこいつ! うちの哲ちゃん、なにバカにしてんだよ!」
 沢野絵里は、逆上しているようだった。正の手を振り解き、龍二の肩を、拳で背中を殴り続ける。馬鹿力であった。
「正」、龍二がいやそうな顔のまま、正を見た。痛そうではないが、これで痛くなければ、感覚がおかしいから、我慢しているのだろう。
「あ?」
「なんで俺が、この女にキレられんの」
「そりゃ、おまえ……愛の力とか」
 うげ、と龍二は顔をしかめた。
「駄目だな。女の趣味は、佐藤の方が上だ」
「おまえ、そんだけ落ち着きあんなら、この人止めんの手伝ってくんねえかな。すげえ強いんだけど」
 殴られている肩を、龍二が軽くすくめる。
「俺が触りでもしたら、噛みつく勢いだべ、これ」
「ふざけんじゃねえよ、この縄文顔! 筋肉バカ!」
 沢野絵里が、叫ぶ。なるほど龍二を罵る言葉としては、縄文顔は、言い得て妙かもしれない。ただ筋肉バカは、的外れだ。いや、的外れだからこそ、罵りになるのか。思いながら、正はようやく沢野絵里の両腕を掴み止めつつ、龍二に聞いた。
「佐藤の趣味って、大恒さん?」
「これよりゃいいべ」
「これってなんだよ、コラ!」
 龍二に肯定したら、なんとなく沢野絵里に股間でも蹴られそうな気がしたので、正は黙ったままでいた。両腕を捕らえてもなお、沢野絵里は龍二に食ってかかろうとしたが、段々とその動きも弱まっていった。ぜえぜえと肩で息している沢野絵里の腕から、正は手を離してみた。もう、龍二が叩かれることはなかった。公園の一部にも平和が戻ったかと思われたが、今度は、すすり泣く声が響き出した。沢野絵里の後ろについていたため、正は確認できない。だが、龍二の顔で、知れた。苦虫を噛み潰したようなとは、よく言ったものだ。まったく、カマドウマでも噛み潰した顔をしている。泣いているのは、沢野絵里だ。間違いない。勘弁してくれよ、と正も思う。キレて泣いて、どうしたいってんだ。
 砂を蹴る足音が、聞こえた。正義漢の登場か、と正は半ばやけになりながら、振り向いた。微妙なところだった。恋人を守ろうとする男なら、正義漢になるかもしれない。
「哲男さん」
 茶髪は乱れ、顔中に汗、せわしない呼吸、出てくるのは咳。ここまで、走ってきたようだ。
「おまえら、なにやってんのよ」
 サンダルを引きずって歩きながら、困ったように、哲男は言う。そして咳。
「なにって、まあ……」、と正が背中で泣いている沢野絵里を見てから、なんと説明したものかと哲男に向き直ったところで、
「この人が一人でキレて一人で泣いてんすよ」
 うんざりしきった龍二の声がした。哲男は薄い眉を目に近づけ、なにか痛ましい顔をした。
「絵里。なしたの」
 掠れた哲男の声にも、沢野絵里は振り向かず、鼻水をすする音だけを返す。龍二はスポーツバッグを肩にかけ直し、帰る準備を整える。正は、沢野絵里の前から避けた。そこへ、哲男が入る。沢野絵里のワンピースに包まれた肩へ、哲男はそっと手を置いた。
「絵里。なしたのよ」
「哲ちゃん。ごめん」
 か細い声だった。
「絵里が謝ることないべや。俺が悪いんだ。かっときちまって」
「いいの、哲ちゃん悪くない、うちが悪いの。いいの、もう」
 沢野絵里の語尾は、裂けそうに震えていた。哲男は沢野絵里を、後ろから抱き包んだ。正は帰るタイミングを探っていた。なにも言わずに去るのも無礼だが、ここで声をかけるのも野暮だ。
「哲男さん」
 だが、龍二は野暮もなにも、気にしないやつだった。こういうときに、助かる。だが、沢野絵里を追いかけてきたのもキレさせたのも殴られたのも龍二だと思えば、始末をつけるのも当然かもしれない。いずれにせよ、これで帰れそうだ。
「龍二、おまえ……」
「これ、任せます。どうにかしてください」
 哲男の言葉をさえぎり、龍二は沢野絵里を顎をしゃくって示す。人の彼女を、もはや物扱いである。
「あ、ああ……」
「ちゃんと話してくださいよ。腹割って。俺、哲男さんに幻滅したくないっすから」
 龍二が哲男を見据える。哲男は沢野絵里の頭を龍二を交互に見て、真顔でうなずいた。
「わかった。ありがとう」
 軽く肩をすくめた龍二が、歩き出しながら正を見る。行くべ、ということだ。正は哲男に会釈をしてから、自転車に戻ろうとし、思い出して立ち止まり、哲男をまた向いた。
「そういや、勝ったんですか?」
 哲男はまだ泣いている沢野絵里に、なにかささやいていたが、一度野暮が通った状況では、正も遠慮する気にはならなかった。哲男が、怪訝そうに正を見る。
「あ? なに?」
「勝つか負けるか、生きるか死ぬか。受験は戦争っつってたしょ、哲男さん」
 哲男は間の抜けた顔をして、正を見、沢野絵里を見た。そしてまた、正を見る。やはり、間抜け面だ。まあ、死んでねえから勝ったんだろう。正は納得して、いや、なんでもないっす、と足を引いた。
「まだわからん」
 半身になったところで、哲男が言った。ひどく実感のこもった声だった。哲男を見る。困ったように、だが、照れくさそうに、笑っていた。
「そうすか」
 正は左頬だけで笑い、じゃ、と片手をあげ、恋人同士に背を向けた。五歩進むと、龍二が立って、待っていた。なにを話していたかは聞かず、正と同じ調子で歩き出す。
「いてえ」
 スポーツバッグをカブの荷台に投げ入れ、龍二は肩を上げ下げしながら、舌打ちした。
「あの女、バカだべ。加減もしやがらねえ」
「まあ……いてえよな」
 沢野絵里すら、拳を痛めていそうなほどの、あれは全力だった。龍二にあざの一つや二つ、できてもおかしくはない。自転車のハンドルに手を置き、正は言った。
「おまえ、先行ってていいよ」
「あ?」
 まだ肩をぐるぐる回していた龍二が、聞き取れなかったように、眉を上げる。
「先帰って、冷やしけよ、肩とか」
 軽く笑って、正は言った。真面目になると、他人に殴られたということが、深刻に感じられそうで、いやだった。
「こんなもん、冷やすまでもねえけど」
 龍二は、不可解そうだ。正は粘った。
「念のため」
「変なとこで慎重だよな、おまえ」
「変なとこか?」
「あの女が俺らバカにしても、我慢してたべ、怒んの」
 隠そうとしていたが、バレていたらしい。まだ、成長途中だ。仕方ない。それはそれとして、正は呟いた。
「変なとこか」
「でもまあ、俺はおまえのそういうとこ、嫌いじゃねえよ。俺と違うから」
 なにが変かは答えず、龍二はカブに乗った。
「おまえは、むかつかなかったの」
 自転車に乗らないまま、正は言った。俺と違うなら、と思った。自分をこの街を、バカにされてむかつくことは、なかったのだろうか。ヘルメットをかぶり、龍二は珍しく、鼻で笑った。
「あの女にむかつかねえやついたら、そいつこそが寛容だわ」
 正も、笑ってしまった。
「哲男さんとかな」
「あの人、いい加減、優しすぎだべ」、龍二がお手上げというように、肩をすくめた。「じゃ、先行ってっから」
 歩道から車道に降り、高い変速の音を上げて、カブは車の流れに乗った。一人の道程となるが、気が楽だ。ここから家までの長い道のりを、まだぬるさの残る大気の中、肩や背中に打撃を食らった龍二と、沢野絵里の痕跡が残る龍二と、ゆるい速度で並んでいたくはなかった。
 正は自転車のスタンドを外し、サドルにまたがり、ペダルを漕ぎ出す。
 もう夕方だ。涼しくなっているが、汗が即座に引くほどではない。
 あの二人は、どうなるだろうか。沢野絵里。哲男をバカにされただけで、相手が龍二でも構わず殴りに行くということは、やはりそれだけ哲男を好きだったということか。哲男。全力疾走で、沢野絵里を追いかけてきたということは、やはり意識を奪われているからだろうか。腹を割って、話すのだろうか。たかが、好き嫌いだ。だが、感情は、なによりも動かしがたいものかもしれない。犬が好きな人間と、犬が嫌いな人間が、犬について話したところで、平行線を辿るだけだろう。しかし、互いを理解しようという気持ちがあれば、好き嫌いは変わらなくとも、距離の縮まる可能性はある。譲歩はできるかもしれない。
 この街を好きな人間と、嫌いな人間。
 農作物は豊富だが、遊び場は少ない。若者たちは垢抜けず、それでいてどこかマセていて、腐っているやつは本当に腐っているし、素朴なやつは素朴なままだ。酒びたりの大人、狭量な大人、穀潰しの大人、豪快な大人。人の噂話以外、楽しいことを見つけられないやつら。色んなやつがいる。確かに狭いが、色んなやつがいる。その色んなやつらを、広い道路、広い畑、広い田んぼ、広い空が、抱えている。新鮮味のない景色、臭い空気、沸き出す虫。
 嫌いなやつは、嫌いだろう。だが、この街を、本当に好きなやつなど、いるのだろうか。故郷はその人間の一部だと、龍二は言った。自分の一部になっているから、否定されたくないだけなのか。
 俺はどうだ、正は思った。自転車を漕ぐ。駅から離れた、水田に囲まれた家に住む、生活。好きだ、とは、感じない。だが、それをバカにした沢野絵里のことは、殴ってやりたかった。沢野絵里が哲男をバカにした龍二を殴ったように、全力で、殴りつけてやりたかった。ということは、これは、恋なのだろうか。沢野絵里が哲男を好きなように、俺はこの街が好きで、恋してる。
「……疲れたべか」
 哲男と沢野絵里の関係に、調子を崩されたかもしれない。思考がおかしくなってきた。きょうに限っては、とても勉強がしたくなって、正は歩行者の少ない歩道を、全力で飛ばした。


   五

「荒木さ、永田と女泣かしたんだべ?」
 昨日よりは気温が低いが、残暑はいまだ厳しく、教室は蒸していた。自分の席についた正は、なにやらクラスメイトに見られているように感じ、まだ疲れてんのか、とため息を吐いた。そこへ、隣の席の噂好きが、声をかけてきた。
「……はあ?」
「なんか青空公園で見たってよ、香川のやつ。荒木と永田がふたりで、なんか女の人の手つかんで、なんか泣かせてたって」
「え、なにやったのおまえ」
「いや永田はやらかしそうだと思ったんだよ、俺」
 他の男子も、興味津々といった体で、話に加わってくる。相手にする気力も出なかったが、自分の面目を考えると、言いたい放題言わせているわけにもいかないので、正は腹から声を出した。
「なんもやってねえ」
「だって、泣かせたんだべ」
「色々あれだ、事情があってよ」
「なに、事情って」
「話したくねえ」
 心底、そう思った。哲男はともかく、沢野絵里のことについては、もう一切話したくない。その言葉をどう捉えたのか、他のやつらは、一層たかってくる。ネタに困っているのかもしれない。女を二人がかりで泣かせた、そこに尾びれ背びれをつけて、青春の鬱憤を晴らしたいのだろう。誤解が発展することの不安はないでもなかったが、勝手にしてくれや、正は思った。もう、なにも言いたくないのだ。ため息を吐いて、女を泣かせた云々から意識を逸らそうと、好奇心を露わにするやつら以外を、見ようとした。取り囲んでくる男子のすぐ後ろ、自分を見下ろしてくる存在に、そこで正は気付いた。でかいのに、どうも気配が感じられないときがあるやつだ。
「おはよう」
 好奇心の一つも見当たらない顔をしたやつに、正は声をかけた。自分のことを話題にされているにしては、龍二はむしろ落ち着き払っていた。泣いた女が美人かどうかで盛り上がっていた男子が、一斉に龍二を向く。よくできた、ドラマのような息の合い方だった。
「おはよう」
 龍二は仏頂面で各々を見回してから、言って、自分の席に向かった。地の顔がいかつくおっかないだけだが、慣れていても、やはり怖いものがある。群がっていた男子は、話題を変えて、散らばった。興味もなくしたのかもしれない。正はまた、ため息を吐いた。
「女の人、泣かせたの」
 右からの、かすれ気味の、高めの声。きょうも話しかけられるとは思わず、うえ、と正はびくりとしてしまった。大恒は、正を見ていた。相変わらず、端整な顔立ちだ。綺麗だった。猛った拍動を抱えたまま、正は言った。
「まあ、色々事情があって」
「ふうん」、大恒は興味なさそうに鼻で言った。「佐藤のお兄さんの、彼女?」
 形の良いその目が、探る色を持っていた。昨日、大恒の前で、自分と佐藤と龍二とで、佐藤の兄に会うという話をした。哲男は彼女連れだとも、話題に出た。大恒はそれを覚えており、察した。自分と龍二で女性を泣かした、その相手が佐藤の兄の彼女。
「そうだけど。気になる、大恒さん」
「別に」
 すげない返事だ。大恒は、もう開いたノートを見ている。気になっている、そんな態度だった。案外、わかりやすい子なのかもしれない。だが、気になるとして、それは佐藤が関係するからだろうか、龍二が関係するからだろうか。それとも、俺か。正は思い、再びため息を吐いた。ありえないことを考えるのは、やはり、疲れているせいだろう。授業に集中しよう。そう決めても、ため息は出た。

 屋上につながる階段の踊り場は人気がなく、昼休みでも滅多に人が来ない。弁当、あるいは惣菜パンは、ここで食う。龍二とだ。内緒の話があるわけではない。というか、ほとんど話をしない。きょうも、朝のことも昨日のことも、話さない。階下の騒がしさは遠く、静かに飯を食える、だが孤独ではない。そういうのが、正は気に入っている。龍二がどうかはわからない。ただ、いやならば、来ないだろう。いやな相手に龍二が手厳しいことは、昨日改めて知った。
 母の作った弁当を、黙々と食べる。食卓に出てくると味気ない冷凍食品が、弁当に入っていると美味しく感じられるのは、不思議なものだ。龍二がおにぎり一個、正が白米を半分、平らげたところだった。階段をのぼる足音が、近くに聞こえた。見れば、丁度下の踊り場に、佐藤が上がってきていた。
「おまえら、いつもここで飯食ってんよな」
 手すりに手をかけながら、怪訝そうに佐藤が言う。龍二は佐藤を一瞥しただけで、二個目のおにぎりを頬張り出した。正は箸を持ったまま、まあな、と佐藤に言った。
「なんか用か」
「あー……」、佐藤は階段に足をかけながら、口ごもった。
「兄ちゃんが」
「哲男さんか」
「お礼、言っといてくれって。おまえらに。なんかよく、わかんねえけど」
 手すりを握る手とは反対の手で、頭を掻きながら、佐藤が言う。顔は目くらいしか似てないが、困ると頭を掻くところは、似てるかもしれない。おにぎりを食べる龍二を見てから、正はうなずいた。
「ああ、わかった」
「あと、永田」、と佐藤は声を少し大きくして、龍二を見た。「今日おまえんち行くってよ。彼女様連れて」
「連れて来るってか」
 龍二はおにぎりの残骸を口に含んだまま、飯粒を飛ばしそうな勢いで、言った。佐藤は軽薄に笑った。
「いい人だろ」
 沈黙がおりた。佐藤の笑みが、ゆがむ。正は呟いた。
「……限定的には」
「おまえ、人見る目足りねえな、佐藤」
 龍二の声には、軽蔑が混じっていた。なんだと、と佐藤は一歩また階段を進み、ふと首をかしげた。
「つーかおまえら、会ったの?」
 再び、沈黙である。朝、泣かしたと揶揄されただけで、十分だった。一生思い出したくもない事柄だ。
「話したくねえ」
「あ? なによそれ」
 かしげた首をさらにかしげた佐藤を、正も龍二も見ないことにして、昼食に戻った。おい、無視すんな、と佐藤は階段を上がり、正の隣に腰をおろした。邪魔くさいやつだ。
「なあ」
「話したくねえ」、正は繰り返した。
「ちげえよ」、佐藤は子供のように、舌足らずに言った。「亜矢ちゃんて、田舎嫌いかな」
 田舎の話題も、勘弁してほしかった。哲男の彼女を思い出さざるを得ない。あるいは佐藤は、哲男と哲男の彼女との話を、少しは聞いたのかもしれない。この街が嫌いだと言った、沢野絵里。大恒亜矢は、沢野絵里とは違う。別の人間だからだ。そんなことは、佐藤にもわかるだろう。わざわざ言ってやる義理もない。だがここで無視しても、大恒の話だ、佐藤は諦めないに違いない。龍二は無心におにぎりを食べている。二個目はまだ終わらない。永田家のおにぎりは、特別でかい。
「んなこと、本人に聞けばいいべ」
 正は言って、ミートボールを口に入れた。噛む前に、佐藤が言い返してきた。
「俺が聞くこと言うことはさ、なんでもジョーダンだと取られるわけよ、あの子には」
「おまえそりゃ、真面目にしとかねえからだべ、普段から」
「真面目になれねえもん」
 唇を尖らせながら、佐藤が言った。
「真面目になんて、なれねえって」
 深刻な空気が、佐藤の体を取り巻いていた。思い詰めている様子だった。大恒相手に真面目になると、どういう結果が出るのか正には知れないが、佐藤はそれを、極度に恐れている。沢野絵里を、思い出した。この街を嫌いだと言ったやつ。そして、哲男を好きだと言ったやつ。不快になった。佐藤の暗い空気を、吹き飛ばしたかった。
「自営業は、好きじゃないらしいけど」
 呟いた瞬間、佐藤の目が光った気がした。
「ナニそれ」
「公務員がいいんだと。食いっぱぐれない。不祥事起こすようなやつはダメ。まあ、そりゃそうだべな」
 内緒だと、大恒に言われた話だった。だが、仕方ない。いじいじとした佐藤の空気に、いつまでも引きずられたくはなかった。佐藤に希望を与えるには、大恒の情報が一番だと思われた。
「そうか」
 ついさっきまで、暗鬱な表情をしていた佐藤の顔が、安心したようにほころぶ。笑顔だ。佐藤が好きな女子なら、この笑顔を見られれば、嬉しいのかもしれない。そういう女子と、立場を代わってやりたかった。口約束ではあるが、それを反故にしてまで見ても、面白くもなんともないものだった。せめて正は、注意した。
「大恒さんに昨日、俺、内緒って言われたの、それだよ。言うなよ。言ったら俺の信用、ひでえわ。まあ、元々ねえだろうけど」
「わかってるよ。わかってる」
 真剣な顔になり、佐藤はうなずいて、涼しい微風のように立ち上がった。
「ありがとな」
 笑みがまた、そこに浮かんだ。爽やかだった。じゃあまた教室で、と佐藤は階段を一段飛ばしでおりていった。
「大恒のどこがいいんだべな、あれ」
 おにぎりを食べ終え、ペットボトルの茶を飲んだ龍二が、どうでもよさそうに言った。事態は不思議だが、対象人物についてはどうでもいいのだろう。正としても、さして気になることではなかった。だが、いまはなんでもないことを、話したい気分だった。
「あの、なんつーか、真っ二つって感じのところでねえの。前に言ってた気ィするわ、あいつ」
「わかんねえ。まあ、大恒も悪い気はしてねえらしいけど」
 おにぎりを包んでいたアルミホイルをまとめながら、龍二がさらっと言った。正は最後に残ったりんごを噛み砕いて飲み込んでから、
「そうなの?」、驚いた。
「そんな驚くことかよ」、龍二が不審そうに見てくる。
「いや、おまえ、そんな話してんの。大恒さんと」
「この前、言ったんだよ。あれ、佐藤がうぜえならそう言ってやれよって。見てて俺が鬱陶しいから。でも大恒はそんな、うざくねえみてえ。俺と違って。可愛いとか言ってたな。哲男さんといい、わかんねえな、人の好みってのは」
 虚空を睨みつけるように、龍二は眉間に力を入れた。理解ができないと、その顔が語っている。正は、衝撃を受けていた。大恒と龍二は、よく話している。わかっていることだった。だが、口数の多くない龍二からそれを聞かされると、二人の親しさが際立つようで、衝撃だった。内容もだ。大恒は、佐藤を可愛いと思っている。衝撃だ。なんとなく、がっかりした。アイドルが結婚したと知ったときと、似たようながっかり感かもしれない。デキ婚ではないだけ救いはあるが、やはりショックはショックだ。
 結構俺は、大恒のことを、気にしていたのかもしれない。
 いまさら気付いても、仕様のないことだった。正は弁当箱をしまい、気分を切り替えるため、一番興味のない相手のことを、話そうとした。
「それ、佐藤が知ったら……」
 有頂天になるだろう、そう言おうとしたが、違和感が生じたため、言葉を続けられなかった。龍二を見る。龍二は立ち上がって、わかっているというように、うなずいた。
「引くべや」
 階段を下りながら、だべな、と正は言った。哲男の言によれば、佐藤俊男は、構われたいが、構われるのを居心地悪く感じるやつらしい。なら、好意を見せて寄ってくる相手とは、結局一緒にはいられないだろう。それをしないからこそ、佐藤は大恒を好きなのかもしれない。面倒なやつだ。そんな面倒なやつを、かわいいと言う大恒も、面倒なのかもしれなかった。お似合いだ。そう思うと、衝撃も薄れた気がした。教室への廊下を歩き、そしてふと、正は思いついた。
「龍二」
「あ?」
「俺らも佐藤のこと好きんなったら、引かせられんでねえの?」
 おそらくもう、寄ってはこないだろう。居場所だと、思われることはないだろう。龍二は、非常に苦々しそうに、顔をしかめた。
「果てしねえ道のりだ、そりゃ」
「大空並か」
「広い大地並だ、やる気も起きねえ」
 言い切って、龍二は歩調を速めた。正は変わらぬ調子で歩き、龍二から遅れて教室に着いた。


   六

 授業中、佐藤の眠る姿が見られなくなった。残暑も消えたころ、テストの結果も、以前より良くなったと、本人が吹聴していた。正は、以前と変わらなかった。私立大学へ進学するには、いまのところ、不足はなさそうだ。日々は進む。佐藤が、学生の本分と向き合い出したことは、誰の目にも明らかだった。国立大を目指している、などと噂された。最終的に目指してるのは、おそらく公務員だろう。
「あのさ」
 予鈴ののち、席を越えて話をしていた生徒が、散らばり始める。右の席、大恒亜矢の周りから、他の女子がいなくなるのを見計らって、正は声をかけた。大恒が、細い眉を上げ、正を見る。
「覚えてるかな、だいぶ前の、内緒の話」
 少し間を置いてから、ああ、と大恒が息を吐いた。
「公務員」
「そう」、正はうなずき、足りない唾を飲んでから、声を出した。「それ、あのあとすぐ、佐藤に言っちまったんだ。ごめん」
 大恒は眉を上げたまま、いままで見たこともないほど嫌らしさのある、笑みを浮かべた。
「別にいいって。どうせ、荒木君なら言うと思った」
 どうせ、というあたりに、攻撃的要素を感じないでもなかった。正は曖昧に笑った。
「俺の信用、地に落ちてるよな」
「そんなことないよ。私の方がね」
 大恒は、笑みを浮かべたままだ。それが、嘲笑のようになる。いつ見ても、寒気がするほど綺麗な顔だった。その顔は、正を向いてはいなかった。
「大恒さんが?」
「うん」
「なしてよ」
「真面目になれないから、私」
 分厚い雲が、太陽を隠すときのように、大恒の顔から、急激に明るさが消えた。暗く冷たい空気が漂う。思い詰めている。
「なるほど」
「うん」
 似た者同士か、と正は思った。うまくいきそうだ。他の人間の入る余地など、ないのだろう。美男美女で、お似合いじゃないか。お互い真面目になれなくて、面倒なやつら。だが、似ているならせめて、佐藤ではなく、大恒に、いいと思われたかった。正は教室の窓を見た。その向こうにグランド、木々、田園風景、山々。緑が、鮮やかさを失いつつある。もう秋だ。日々は進む。自然は装いを変え、しかし動かない。
「俺、この街と心中すっかな」
 呟いていた。
「……どういう意味?」
 大恒の、頭を心配してくれていそうな声がする。正は大恒を向き、龍二がいつもやるように、肩をすくめてみた。
「いや。なんでもねえわ」
 龍二ほど、大人に見えた気はしなかった。当然だ。所詮、他人だった。好みもそれぞれだ。そのことに、安心した。
 ふうん、という気のない大恒の声を聞いてから、正は再び窓の外、変化のない景色を見、早く春、こねえかな、と思った。

   (了)


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