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彼女のくちびる

「いつも思うんだけど」、彼女は寝不足が象徴されたような濃い影に囲われた大きな目でファミレスの窓を睨みながら、苦々しげに言った。「夏目漱石とか芥川龍之介とかさ、ほら、三島由紀夫とか、ああいう人たちがもうあたしが生まれる何十年も前に、あんなすごい小説書いてて、それでうちらはそれを全部学べて理解して、その頃よりずっとずうっと沢山のこと分かってるのに、それなのに太刀打ちできないのって、進化っていうか退化してるんじゃないか、って」
 彼女は喋りながら、ファミレス特有のメニュー表よりも小さく見えるグラスに挿した曲がりストローを唇の端に留めていたが、グラス内のアイスコーヒーが吸われたのはそこで彼女が一呼吸置いてからだった。
「本当ならうちらはもっと、色んなことを理解してるはずなんだよ、世界中にあることたちを沢山」、彼女はファミレスの窓を睨み続ける。雨の夜は光の反射が濃く、彼女の顔の一部をそこに映している。世界が削り取った彼女の一部分、奪われた彼女の一部分。「なのに何で、何で世界は平和にならないんだろう。戦争だってまだあるし、日本だってみんな、みんな悪いことを悪いままにしてる、放置してる、三島由紀夫は何のために死んだって言うの?」
 何のために死んだのだろうか。私はそれをよくは知らない。彼女はファミレスの窓ガラスを睨み続けている。そこに答えがあるのだろうか。私の知らない答えは、彼女の目には見えているのだろうか。
 ずず、と彼女がアイスコーヒーをストローで吸い上げる。氷はほとんど溶けていて、コーヒーがどの程度の薄さになっているかは見当もつかない。アイスコーヒーにいくら氷を入れればそれは、黒さを失うのだろうか。彼女の舌は、アイスコーヒーの薄さをどの程度感じているのだろうか。表情からは窺い知れない。彼女はいつでも不満そうに、細く描いた眉の間をかまぼこの板のように強張らせて、目の端をきつく釣り上げて、唇を尖らせている。彼女の小さい唇は、何かを吸うのに丁度良さそうだった。アイスコーヒーも彼女に吸われるのであれば文句はないだろうと思える。彼女の唇はいつだって、不思議な不満を吐き出して、アイスコーヒーを吸い出すことがよく似合った。



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